詩仁は、なんでもないことのようにさらりと言ってのける。詩仁がずっと正面方向を見ているので、俺も前に向き直った。たったひとりの俺の弟が、なにやら物騒なことを口走っているというのに、夕陽は無責任に沈み続けている。太陽には沈めば必ず昇るルールがあるけれど、人にそんな法則はない。一度沈んで、そのまま沈みきった状態の奴だっている。生きていればいつか絶対良いことが起こるなんて話、俺は絶対に信じない。
俺は口を閉ざしたままだった。そのまま数秒経って、詩仁が俺の隣で小さな笑いを転がした。投げ出したような、これもまた乾燥した笑いだった。
「じゃあ、もう生きてたくないと思ったことは? なんのきっかけもないのに、唐突にうんざりすることはない?」
「ある。本当に唐突にくるよな、あれ」
それこそ死ぬ程あるぜ。俺がそう付け足すと、詩仁は、同感だとでも言うように声を上げて笑った。今度はきちんと温度を保った、いつもの愛嬌のある笑い声だった。そのことに俺は少し安心して、ほっと胸を撫で下ろす。悪ぶっているけど繊細で、時々すごく壊れそうな弟を放って、俺がひとりで死ぬわけにはいかない。それに俺は、俺にとっては、ほかの人がどう感じるかはわからないけど、自殺は最良の選択にはなり得ない。死んだら、なにもかもおしまいなのだ。そう、本当に、なにもかもがおしまいになる。おしまいにしたいことなら多すぎて、いっそ吐き気を催す程だ。でも、おしまいにしたくないことだって少しある。他愛のない話題、とはさすがに言わないけれど、詩仁とのこんなやり取りも、まだまだ終わりにしたくはない。
なあ、と声を掛けられて、ん、と俺は詩仁に声を返す。詩仁がこっちを見たら振り向こうかと思ったけれど、そんな気配はないので、俺は前を向いていた。俺も詩仁も、ずっと夕陽を見つめていた。
思い切ったように、詩仁が呟いた。
「死ぬなよ、嘉兄」
言った、というよりは明らかに「呟いた」のほうが合っていた。詩仁は続けて、さらに呟く。
「俺を置いて、勝手に死んだりしないでくれよ。もしそんなことがあったら、俺、絶対許さない」
小言で饒舌。そこまでひねくれているわけでもないけど、そんなに素直というわけでもない詩仁が、はっきりと本音を口にした瞬間だった。詩仁の奴は、不思議な言い回しになることを承知であえて言うけれど、あまり素直にならないんだけど嘘は吐かない性分だ。兄貴の俺にはそれくらいわかっているし、俺じゃなくても、詩仁と少し付き合えばわかる事実だと思う。
「俺がいないと淋しいかよ、詩仁」
「寂しすぎて死んじゃうかも」
「じゃあ俺、今晩にでも、腹かっ捌いちゃおうかな」
火がついたように、詩仁が俺に顔を向けた。ふたつの瞳が、突然唯一の安定源を喪失したように、不安げに震え始める。その反応がなんだか面白くて、今度は俺が笑い声をあげた。一言「冗談だよ」と告げてやると、安心したのか、詩仁は長い息を吐き出しながら夕陽に目を戻す。
ちょっとからかうつもりだっただけなんだけど、俺のジョークが予想以上に詩仁の心にショックを与えてしまったようだ。この後の「寂しくて死ぬなんて、お前はウサギかよ」と茶化す計画の遂行は、さすがに罪悪感が募るのでやめることにした。仮に言ったとしても、「そうかも。俺って人間のふりしたウサギかもしれない」なんて答えられたら俺が返す言葉に困るし、詩仁なら真剣にそう言い兼ねない。
俺はずっと笑い続けていた。なんだか、なんとなく満たされているような気分で悪くなかった。いい加減で焦れてきたのか、少し怒ったような声で詩仁が「笑いすぎなんだよ」と文句をつけてくる。それでも俺は笑ってしまう。ついに詩仁は「先に帰る」と言って立ち上がった。ズボンについた砂を両手で払って、詩仁はくるりと踵を返す。本当に歩き去ってしまいそうな雰囲気だ。そう感じると、俺の顔から、すーっと笑いが引っ込んだ。
「詩仁」
既に2、3歩踏み出した詩仁を呼び止める。俺の背中側で、足音が止まった。
振り向かずに、俺は言う。
「お前のほうこそ、早まったことするんじゃないぜ。勝手にどっか行ったりしたら、俺、本当に絶対に許さないぜ」
少しの沈黙があった。俺は、ゆっくりと詩仁のほうを振り返る。兄貴の俺が言うこととしてどうなのか、とちょっと疑問だけど、詩仁の顔は整っている。美少年、というよりも、どちらかというとイケメンと呼ぶ部類だ。淡く微笑んでさえいればアイドル顔負けなのに、詩仁はいつも、へらへらのにやにやだ。正直、傍目には不審なオーラすら漂って見える気がする。
さっきまで怒っていたくせに、詩仁はにやけていた。面白そうに口を開く。
「寂しくて死んじゃうんだろ」
「え」
「俺がいないと、嘉兄、寂しすぎて死んじゃうんだよ。ウサギみたいだな」
ウサギみたいって、それは俺がお前に言ってやる予定だったことなんだぞ。まさか思考が被るとは、やっぱり同じ血が流れてるんだな。なんて俺が考えているとは知るはずもなく、詩仁はひとりで可笑しそうに笑っている。