例えば、今ここで、故意に傷つけられた人を見つけるとする。そしたら、傷つけられた人は、故意に傷つけてきた人に対して「なにすんだよ、なんでなんだよ」っていう思いを抱いて、その人を憎んだり恨んだりするようになるとする。これは間違いなく、紛れもなく、傷つけられた人に認められている、その場で瞬時に自然発生すると言っても過言じゃない正当な権利だと思うんだよね。さすがに義務なわけないけども。
その構図を咎めることは、第三者にとってはすごい簡単。やられてもやり返すな、とか、罪を憎んで人を憎まず、とかもそうなのかな。専門家じゃないからわかんないけど。だけど、それはあまりに的はずれな指摘。だって問題になってるのは第三者じゃないし、そもそも、上記の式には、最初から第三者なんて求められてないんだよね。単に加害者であるか、単に被害者であるか。それだけの話。ここに他人が入り込むのは図々しいし、正直邪魔だと思う。まして、その他人が自分、まぁ、加害者にしても被害者にしても、自分にとっての優勢になる主張をしてくれないなら一層そう。味方をとれなかったほうは、なんだよあいつ、ってなる。と、思う。
という、単純なこの考え方。まぁ、言うなればこれは、ケンカだよね。子どものケンカ。実際に起こっている、起こり続けている事件や事故では、こうもわかりやすい例で進んだりはしない、と思うけど。
被害者が恨んで、加害者が恨まれるというのが正しい像だとしたら、被害者ならその権利を、加害者ならその義務を、放棄したならどうなるんだろう。両方が放棄したなら、内面でどんな事情や事態を招いているとしても、少なくとも表面上の綻びはなくなるはず。どっちも顔背けてんだから、なんにもないのは当たり前。
んじゃ、どちらか片方がその行為をやめる、っていうのはどうだ。加害者が恨まれる義務を放棄する。開き直ってるだけじゃん。被害者が恨むのをやめる。そんな話があるか? まぁ話が進まないから、あるとする。やっぱり一方通行。どこにも向かわない。
ってな感じで考えていくと、向き合うことって、すごい大切なんだと思えてくる。そんな簡単な話でもないんだけど。でも、そうしなきゃ、なんにも変わらないんだよね。そもそも変わることなんて誰も望んでないかもしれないし、変わりたくても変われない人だっているかもしれないし、変わっちゃいけないと感じてる人もいるのかもしれない。姿も、考え方もいろいろ。
でも、そういうのを望んでない人もいると思うんだよね。これがその他の人の視点、というパターン、っていうことがあるんじゃないかなぁ…と、ユーキは思うわけさ。
誰の望む世界を最優先できるか、って話だよね。
世界って簡単には変わらないけど、変えなきゃならないこともあると思う。自分の認識できてる、自分の世界。自分の世界だから、変えるのもできるはず。
それから何度も言ってるけど、人は、変われると思うんだよね。どこでどう変わるかって、大事なとこ。こういうこと考えるのも、たまにはいいでしょ。
たくさんの人が、いい方向に、たくさん変われたらいいと思う。幸せな世界を望むよ。本当に。
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