生死の概念というやつは、人は何歳くらいから身に付くものなんだろう(´ω`) 小さい頃って、割りと残酷な遊びするよね。ダンゴムシ乱獲したり、いもむし潰したりして。ってことは、生死の概念が薄いというか、ほぼないと考えていいよね。
ユーキも昔、かなり残酷な遊びしてたけど、あの時点で小さな命が自分のせいで失われたことに対して、罪悪感を感じるというのは正常なことなのかな。誰も教えてくれなかったら、やっぱり罪悪感なんてないのかな。生死の概念は、自然に身に付くものじゃないのか。今思うとわからん。
あ、自然に身に付くといっても、環境があるよね。いろんな環境。本もテレビも勉強も。ということは、そういうのが作用してるわけだから、明らかに自然な状態とは言えないなー。世の中、ほとんどの環境面が教育的に稼動してると考えても問題はないと感じる。
あれ。じゃ、正常であるべき姿はなんだ。これだけ緻密に組み込まれてるみたいな世の中で、異常な事件が起こるということ以前に、異常な事件を起こす人間がいることが、まず謎。って言ってるときりがないから、要するに、いっぱいあるようで全然ない。敷き詰められてるようで、実は空洞だらけ。つまるところは、そういう話で落ち着きそう。
ただ、囲いだけはしっかりしてる印象。やらなきゃいけないことだけは、わかりにくかったりわかりやすかったり、大変だったり大変じゃなかったり、重かったり軽かったりで違いはあると思うけど、一応は、はっきりしてる。気がする。壁は頑丈。外にも内にも。
じゃ、やっぱり世界は檻か。ここは外だと思っただけで、実はまだ中にいる。自由と錯覚してるだけで、実はそれは、広い規則のうちの範囲。自分が思えばそこは中でも外で、自由じゃなくても自由ってことになるなら、そう認識することそのものが人の在るべき姿かもしれない。そうすれば拘束はない。無意識のうちに、それができる人がいる。
なんて言って、不必要に難しいこと考えないだけかもね。考えるときりがないし、どんどん発展していくし。
さて、タイトルになってる黒猫事件。なかなか不気味な話なので、興味ある人は検索してみてね。こんな事件、ユーキは全然知らなかった。
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